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葱 頁

ようこそ「葱頁ねぎぺーじ」へ、この頁は葱個人の記録です。内容について御器所八幡宮が保証するものではありません。
私が日頃耳にした【御器所ごきそ(Wikiで検索)を始めこの地域についての古話を記しています。(注:文中のwiki及び鋸南町siteは新しい窓を開きます)
この頁内に記載してある内容は、葱が日頃のご奉仕の中で地域の古老の方々より聞き知った事やそれら知識の範囲で考察した事です。
諸説存在するものもありますし、この内容については研究として調査したものではありません。また、当頁を作成するために資料の正確性を検証したものでもありません。
正史を主張するものではなく、あくまでも御器所を知っていただきたいが為、並びに個人的記録の為に記してあるのだという事を十分ご理解いただきますようお願いいたします。

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御器所と衝羽根樫つくばねがしの森

御器所の名は、建久年間(1190~)吾妻鏡あずまかがみ(Wikiで検索)にも名を残す由緒ある地であります。
このあたりは今日こそ平坦な住宅街となっていますが、古くは丘陵地帯で近年まで小高い山々(丘)があり、亀口かめぐち吹上ふきあげなど水にちなんだ地名が付けられていた程に水が富でありました。また、御器所八幡宮の辺りにはツクバネガシの森があったといわれ、近年までその内の2本が境内にその勢を誇っておりました。
残念ながら、相次ぐ台風による枝折・水不足により2本とも枯れてしまい、現在ではその切り株しか見ることができません。

社の森は古来より鎮守の森として全国各地で大切にされてきました。
今、日本の国土に約60パーセントの森林があると言われております。世界を見渡すと先進国としては驚異的な数字と言えるでしょう。これはひとえに、日本人が古来から森を神様のおられる所として自然の恵みに感謝しつつ共生し大切にしてきたからでしょう。
しかるに、世界的に見ると後20年もすると自然森が無くなると言われて久しい現状の中で、この日本も例外ではありません。
日本の森林の多くは人工的に管理されてきたものも多く、そういった森林の多くはきちんと管理しなければやがて失われていく事となります。
また、様々な開発・環境の変化により危機的状況に瀕しています。森は、酸素を生み出し、空気の浄化を行い、生態系の基をなすものであり子々孫々に伝えていくべき財産です。又何よりも、そこに宿る生命力は人の心を潤すものです。

お陰さまで、御器所八幡宮の森は近隣の皆様の好意により都会には珍しく勢を誇っておりますが、いつ状況の変化が起こるか解りません。
皆様のご理解ご協力をいただき森を大切にしていきたいと思います。

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尾張氏と御器所

尾張氏とは日本書紀にほんしょきには天孫降臨てんそんこうりんされた天津彦彦火瓊瓊杵尊アマツヒコホノニニギノミコト様のお子様で彦火火出見尊ヒコホホデミノミコト様のご兄弟であられる火明命アメノホアカリノミコト様を始祖とすると記され、現在の緑区大高おおだか(旧火高と称す。火災により火の字を嫌い大高となった。)一帯に勢力を誇っていたと言われています。
一説によると、日本武尊ヤマトタケルノミコトがお隠れになった後、緑区大高に奉祀されている氷上ひかみ(火神)姉子神社あねごじんじゃ草薙剱くさなぎのつるぎが奉安され、その後一族の祭祀場があった現在の熱田神宮に剱を移したと伝えられます。

後冷泉天皇ごれいぜいてんのうの天喜4年(1056)尾張氏43代大宮司尾張員頼の時、熱田神宮東方に島が生まれました。ここを田島たじまと称し、ここに居を構えました。その末弟、尾張員職の代には外孫、藤原季範ふじわらのすえのり(寛治4年(1090年)から久寿2年(1155年))(Wikiで検索)を大宮司とし、元来大宮司家であった尾張氏は権宮司となり神事に専念したと伝えられます。
後に、大宮司家は千秋せんしゅう家と称し、尾張氏は田島を名のったと伝えられます。

源氏の頭領源頼朝みなもとのよりとも(久安3年(1147年)から正治元年(1199年))(Wikiで検索)は大宮司家別館(現誓願寺)にて生まれたといいます。その生母由良御前ゆらごぜん(Wikiで検索)は、大宮司藤原季範の娘です。

御器所の地は陸路においても海路においても東国より京へ向かう交通を監視するのに適した場所であったのではないでしょうか。
干拓が進み海岸線は遠のきましたが、熱田神宮のある場所は、以前半島として張り出した地形だったといわれています。その東対岸がこの御器所台地でありました。

御器所の名の由来は諸説ありますが、一説によると熱田の社で使用される神祭土器を作っていたのでその名がついたと言われております。御器所荘ごきそのしょうの一部であった石仏村には、奈良時代の鬼瓦(古観音寺廃寺址ふるかんのんじはいじあと)が出土しており。良質の粘土が取れたといわれ、近くには窯址(若宮瓦窯址)とされる場所もあります。

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八所明神と御器所八幡宮

当宮は現在八幡宮を名乗っていますが、古くは『八所大明神はっしょだいみょうじん』と称し、この御器所荘園の総鎮守です。江戸時代頃より八幡宮を名乗るようになったと伝えられています。
今日、名古屋市の史跡になっている『八幡山古墳』(Wikiで検索)は、往古当宮の奥宮があったといわれ、戦前までその頂上にて湯立神事が行われていました。戦争中一時途絶えてしまいましたが今日では当宮境内において【金の湯 湯立神事ゆたてしんじ】として盛大に斎行されています。

八所明神とは、修験道による山岳信仰と結びついたものや(八霊山)八柱やはしら(神様を数える場合は柱という)の神様をお祀りしたお社、本地垂迹ほんぢすいじゃく(Wikiで検索)による曼荼羅まんだら(Wikiで検索)に描かれた八明神説等それぞれの社において諸説あるようです。
大きくとらえれば八つの所(神様、神社)をお祀りするといったところでしょうか。
御器所八幡宮の場合は、天照大御神アマテラスオオミカミ建速須佐之男命タケハヤスサノオノミコトとが天の安河原にて《誓約うけい》をされた際お生まれになった五男三女神ごなんさんじょしん八柱の神様と伝えられています。

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御器所小学校と村雲小学校

弥生後期の集落址が現在の村雲町一帯より発見されています。特にこの場所からは竪穴式住居址らしいものが見つかったといわれています。
また、御器所台地の西縁に沿って遺跡が連続しているといわれます。一説によれば、村雲町の村雲は本来《叢雲むらくも》と記され、【草薙剱】《天叢雲剱あめのむらくものつるぎ》と縁があったので名付けられたと伝えられます。

氏子地域に御器所小学校があります。平成15年をもって創立130周年となりました。元々は当社前の旧字中屋敷にあり、その名を叢雲学校と称しました。後に御器所尋常小学校となり、現村雲小学校が分校として誕生しました。
御器所小学校はその間に現在の位置に移りました。移った場所は天神森を切り開いたところといわれています。

天神森の跡地にはその名から文教の里としてうってつけと考えられたかどうかは知りませんが、いくつかの学校が創られました。直接の関係があるとは言いきれませんが、明治以前字中屋敷には神官官舎があり、代々の宮司家である安藤家によって、邸内で(一説によれば龍興寺にて)私塾が開かれていました。
叢雲学校がこの場所に開かれたのはその影響もあったのかもしれません。

御器所は、広池を埋め立てた跡地に名古屋商業が創られ(現千種区)。少し南には八校(現名市大)が創られるなど文教の地並びに、名古屋都心の住宅街として発展して行きました。現在でも御器所・村雲両小学校の他、白金・鶴舞・吹上小学校、桜山・円上・北山中学校、向陽高校、桜花学園、名古屋工業大学などが御器所八幡宮の氏子地域にあり、多くの若者が勉学にいそしんでいます。

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佐久間氏と御器所

現千葉県鋸南町きょなんちょう(町official site)の佐久間郷を始祖の地とする一族で、桓武天皇(Wikiで検索)(天応元年(781年)から 延暦25年(806年)在位)の曾孫高望王たかもちおうの子孫相模豪族三浦義明みうらよしあき(Wikiで検索)(寛治6年(1092年)から治承4年(1180年))の孫である家村(Wikiで佐久間氏を検索)を始とします。
北条氏と鎌倉幕府の実権を争い敗れた和田義盛(久安3年(1147年)から建暦3年(1213年))は同じく三浦義明の孫にあたります。その和田義盛の孫である朝盛(Wikiで検索)は和田氏滅亡後に佐久間家村を頼り、その子家盛が佐久間家を相続したと言われております。

承久の乱時、朝盛、家盛親子は敵味方に別れて活躍しました。家盛の属した幕府軍が勝利し朝盛は捕らえられ、家盛は功績により御器所を拝領しました。
放免された朝盛はやがて御器所に落ち着く事となり、佐久間一族もその後に御器所を本拠として関東より移って来ました。

鎌倉より京までつなげていたとされる古街道(Wikiで検索)が御器所付近を経由していたといわれます。この場所はその通行を管理できる重要な場所であったと思われ、さらなる発展を目指した佐久間一門はこの地に可能性を見出したのでしょうか。
また、尾張氏の段にも触れましたが西には海を臨み陸路も監視できる高台で、(笠寺付近より熱田半島の先端までは遠浅の海で、熱田神宮の神主さんたちが神宮より対岸の官舎まで袴を捲り上げ海を渡って帰っていったと言う話があったりします。)
相模で活躍し海の戦も経験があったと思われる佐久間氏には絶好の地であったかもしれません。

嘉吉元年(1441)に当社の社殿を修造し御器所西城を築城した頃には、佐久間一族の運気は絶頂期を迎えていたと思われ、その後、織田信長の臣下として頭角を現す頃には、現在の昭和区を始め千種区の一部、果ては緑区まで数多くの城を持ち一大勢力を誇っていました。佐久間氏が他国へ封じられてからは、慶長五年には、清洲藩主松平忠吉まつだいらただよし公(天正8年(1580年)から慶長12年(1607年))、同十二年には初代尾張藩主徳川義直とくがわよしなお公(慶長5年(1600年)から慶安3年(1650年))の直封となり、十五年に城を名古屋城に移してからは、尾張公の直轄地となりました。

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御器所西城と尾陽神社

御器所台地のなかでもとりわけ高く北側は絶壁となっており天然の要害であったようです。
御器所西城は当社から見て北西方向にあり、土塁と空堀の一部のみその跡をを偲ぶ事が出来たと伝えられます。残念ながら現在は、その地形以外に城跡の痕跡はないようです。

現在この地には名古屋開府300年(明治43年)記念により大正11年に創建された尾陽神社(天照大御神、尾張藩祖義直公と14代慶勝公を祀る)(Wikiで検索)が奉祀されています。

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佐久間家菩提寺 龍興寺

往古瑞雲山龍門禅寺と称し、天文年中御器所城主の佐久間盛次が建立したといわれています。
残念ながら昭和20年の空襲で多くの文化財を含め尾張佐久間氏の資料となるものもすべて焼失してしまいました。
昭和50年、実業家藤山雷太氏(Wikiで検索)の邸宅(東京芝白金の迎賓館)を移築して本堂としています。(昭和54年 愛知県の文化財に指定されています。)

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塩付街道と佐久間氏の財力(葱の推測含む)

西城があれば東城もあったはずですがその所在は不明です。一説によれば東城は佐久間家の重臣服部家の居城で、その場所は鳴海・星崎塩田より信州まで塩を運んだとされる塩付街道沿いにあったと伝えられています。
この塩付街道の歴史は古く江戸期にはすでに有名な街道であったようです。更にこの街道は、川名より飯田街道、矢田から瀬戸街道又東濃地方へと3つの街道に接続しており塩の道として主要なルートであったのでしょう。ここを拠点にしていた佐久間氏は塩の通行権を握っていたかもしれません。
これが佐久間氏の隆盛に何らかの力を与えていたのかもしれません。

また、東国より京の都につながる街道が御器所(もしくはその近く)を経由していたとも伝えられます。この通行を管理する為に佐久間氏はこの地にやってきたのでしょうか?
それを伝える手がかりは、菩提寺龍興寺の空襲による焼失などや信長による佐久間信盛さくまのぶもり(大永8年(1528年)から(天正10年(1582年))(Wikiで検索)放逐により多く散失してしまったと思われます。勝手な推測ですが、御器所荘は元々平家の所領でした。
そのような状況の中でこの一帯は、平家方の勢力が強い地域であったのではないでしょうか。鎌倉方は、平家の流れを汲みながら源氏に味方した佐久間氏に、東国防衛の盾役を求めたのでしょうか。?

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石仏白山社いしぼとけはくさんしゃ

鎮座地 愛知県名古屋市昭和区石仏町1-71
御祭神 菊理姫命ククリヒメノミコト
例祭日 十月一日
境内社
 津島社・秋葉社・児子宮社・塩竃社しおがましゃ金刀比羅社ことひらしゃ山神社やまのかみしゃ
由 緒 創立は不詳とされているが、白山社は隣接の曹洞宗善昌寺そうどうしゅうぜんしょうじの境内にあったとされる事から白山信徒によりこの地に創建されたという説が有力と思われます。明治13年神仏分離が行われ現在の位置に移転されました。

石仏村開墾の祖といわれる服部家の氏塚碑(明和4年(1767年))には貞享年中(1684年から1696年)に白山祠をお祀りしたと記されています。

境内は、星崎塩田、鳴海塩田より遠くは東北地方まで塩を運んでいたとされる旧塩付街道に東面しています。
石仏村は古図にも名を残す御器所荘の支村であり、白山社が所蔵している古観音寺廃寺(天平元年(729年)創建)鬼瓦(奈良後期)の出土等から推察できるように古くから信仰地であったのでしょう。

前出の服部家は御器所荘を領していた佐久間氏と姻戚により城主の地位を得て後には織田信長にも仕えましたが、佐久間信盛の失脚とともに力を失ったと思われます。
氏塚碑には、織田公が信盛を追放したので服部善昌は当地に隠れ住み開墾を行い土を盛って祖先を祭ったと記され、その塚を氏塚と言い後に村民が氏塚の西南大松の下に白山祠を置いて年々お祭りをしたと記されています。

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佐久間氏重臣服部家と石仏村
石版

白山社の北に弘法堂があります。そこに近年まで社日の社しゃにちのやしろと呼ばれる小社がありました。この下に埋められていた石板は服部家氏塚碑と呼ばれていますが、記載されている内容を見ると御器所荘に服部一族がやってきたのは永享(1429年)から嘉吉(1441年)の間であり、天文年中(1532年から1554年)既にこの地に城を築いて居た佐久間氏と姻戚関係を結んで佐久間氏に属し、織田家に仕えていたと記されています。
また、服部満善の子である善昌は、佐久間信盛の失脚と共にこの一角に隠れ住んだと記されています。

天正年間(1573年から1593年)善昌はこの地の開墾に尽くしその功績によっておさに推挙され、これが石仏村の始まりとされています。
この地が石仏村と称されるのは、古くより一大石仏があった為と伝えられます。ただし、氏塚碑自体は天正年間のものではなく、明和丁亥(西暦1767年 10代将軍徳川家治の時代)と記されています。

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古観音寺廃寺跡
瓦 瓦

天平年間(729年から749年)現白山社の東、長戸町に観音寺があったと伝えられています。
この地より奈良時代のものといわれる鬼瓦が出土しており、白山社にて保管されています。古くよりこの地が開けており、有力者がいたのではないかと思われます。

鬼瓦は、大正4から5年(1915年から1916年)に服部清次氏の水田にて他に瓦の破片二つと共に発見されました。他に礎石と思われる石が発見された事から寺院があったと推測されました。(長戸町一丁目28)この他に周辺では若宮瓦窯址・川名遺跡(南分町6-36)があります。川名遺跡からは、布目のある平瓦を出土しています。

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石仏と古墳

この地に一大石仏があった為、村名がついたと伝えられています。現在、この石仏を見る事は出来ませんがそれに縁のある昔語りが現在も伝えられています。名古屋城築城の際この石仏村より石材が運ばれた話は、御器所八幡宮の頁にて紹介させていただきましたが、その話の別話で次のようなものがあります。

大石を運ぶ際そのままではあまりに大きすぎたので石工に命じ割る事となったのですが、割ろうとした石工はにわかに目が見えなくなってしまったといいます。祟りを恐れた人々はその石で地蔵尊をつくり丁重にお祀りしました。そのとたん石工の目は見えるようになったと伝えられます。地蔵尊はそれ以来、善昌寺にて大切に安置され、その話を聞き知った人々が参詣に訪れているとの事です。

白山社のあたりには古墳(塚山)が多くあったといわれています。二子山古墳(塚)山ノ神塚等。このあたりには遺跡も多くその可能性を否定出来ませんが、古墳であったか塚山なのかそれともただ円形に盛られただけなのかは不明です。
実際に、白山社は周辺より小高くなっており積み上げられたものである事は明らかで、道路拡幅のため円墳の一部をさらに白山社の境内上に盛りあげたのだと伝わっています。

白山社の場所には、学区の名前、松栄しょうえいの名の由来となった(別説があります)竜松と呼ばれた幾重にも根元から枝を伸ばした松の巨木があったといわれますが、この工事により枯死したといわれています。

 
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